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日本人はとかく、うわさをすぐ信用()だ。冷静に真实を確かめるようにしなければ。

  • A、しがち
  • B、するべき
  • C、すまじき
  • D、しかねない

参考答案

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考题 初めて人前で話をした時のことである。200人もの聴衆(ちょうしゅう)を相手に円説するということが、どんなに恐ろしいものか、壇上(讲台上)に立って初めて分かった。 テーブルの上には原稿を広げていたし、それを見ながらしゃべり出していた。 しかし、まるで雲に向かって話をしているような感じだった。わたしの話を理解してくれる人が得られるのだろうか。 (ア)、話しているうちに、ふと()気づいた。会場のあちこちに、柔らかく光るものがあったのだ。その「光」は人の目であった。 とたんに(瞬间)不安感は消えた。この「まなざし(目光)」を相手に、素直に(坦率地)話し続ければいいのだと思った。自分の声に自信が出るのを感じた。話をなんとか予定の時間どおりにすることができた。そして大きな拍手までいただいた。 初めて力を与えてくれた何人かの「まなざし」は、相手を知ろう、理解しようという心の現われだったに違いない。その心によってわたしは守られた。飾りを捨てて、ありのまま自分を見せながら語ることができた。それで初めて聴衆の多くと心を通い合わせるチャンスを得たのだ。 人は自分を分かってくれようとしている相手に対して、心を開くものだ。だから、相手に分かってもらいたければ、まず相手を分かろうとするところから出発すべきだろう。 30分間の壇上の体験で、わたしは大切なことを学んだ。それ以来、どんな人にも「あなたを理解したい」という心を、できるだけ「まなざし」に表すことにしている。文中に「わたしは大切なことを学んだ」とあるが、学んだことはどれか()。A、聞いてくれる人が多くなくても、最後まで自信を持って話すことB、自分の話を理解してくださった聴衆に感謝しなければならないことC、相手にわかってもらいたければ、相手を分かろうと努力することD、大勢の聴衆の前で話をする時、原稿を見ながら話してはいけないこと

考题 ニュースは、新聞だけではなくテレビで知ることもできます。 じゃあ、新聞なんか読まなくても、テレビを見ればいいじゃないか。そのほうが楽だし速いじゃないか。そんなふうに考える人もいるかもしれません。でもやはり、ぼくは新聞を読んでほしいと思います。新聞には、テレビにないよさがあると思うからです。 テレビというのは、映像と音が組み合わさっています。見る側は、目とか耳とかの感覚を働かせることになります。テレビの前に座っていると、感覚に訴える要素が次々に現れ、次々に消え、移っていくわけです。これはテレビの特色ですが、同時に欠陥でもあります。 ときどきこちらが考えさせられるようなことを言ったり、興味深い画像が出てきたりしますが、あっと思ったらもう次に移ってしまい、よほど印象深いもの以外は思い出しません。 それに対して新聞、(ア)活字の場合は、立ち止まって(停下来)考えることができます。それだけではなく、さらにその先へ考えを進めることができる。想像を広げたり、新しい着想を得たりということが可能なのです。 映像から得る感覚的な刺激は、(イ)だけで終わってしまうことが多いのですが、活字の場合は、新しい何かを付け加えたり、まったく違うものを創り出したりということがしやすいのです。文中に「これはテレビの特色ですが、同時に欠陥でもあります」とあるが、なぜ欠陥なのか()。A、見る側は、目とか耳とかの感覚を働かせなければならないからB、ときどきこちらが考えさせられることを言うからC、興味深いものでもすぐに次に移ってしまい、忘れることが多いからD、見る側が印象深いものだけ思い出そうとするから

考题 ニュースは、新聞だけではなくテレビで知ることもできます。 じゃあ、新聞なんか読まなくても、テレビを見ればいいじゃないか。そのほうが楽だし速いじゃないか。そんなふうに考える人もいるかもしれません。でもやはり、ぼくは新聞を読んでほしいと思います。新聞には、テレビにないよさがあると思うからです。 テレビというのは、映像と音が組み合わさっています。見る側は、目とか耳とかの感覚を働かせることになります。テレビの前に座っていると、感覚に訴える要素が次々に現れ、次々に消え、移っていくわけです。これはテレビの特色ですが、同時に欠陥でもあります。 ときどきこちらが考えさせられるようなことを言ったり、興味深い画像が出てきたりしますが、あっと思ったらもう次に移ってしまい、よほど印象深いもの以外は思い出しません。 それに対して新聞、(ア)活字の場合は、立ち止まって(停下来)考えることができます。それだけではなく、さらにその先へ考えを進めることができる。想像を広げたり、新しい着想を得たりということが可能なのです。 映像から得る感覚的な刺激は、(イ)だけで終わってしまうことが多いのですが、活字の場合は、新しい何かを付け加えたり、まったく違うものを創り出したりということがしやすいのです。文中の「そのほう」の指すことはどれか()。A、ニュースを聞くことB、ニュースを知ることC、テレビを見ることD、新聞を読むこと

考题 わたしのかぞくはきょうとにすんでいます。かぞくは父、母、あね、おとうと、おばあさん、そしてわたしの六人です。おじいさんは八年まえになくなりました。ちちはべんごしで、母は小学こうのせんせいです。あねは二年まえに大学をそつぎょうして、今、とうきょうのかいしゃではたらいています。一人でかいしゃのりょうにすんでいます。おとうとは十七さいで、もうすぐこうこうをそつぎょうします。いま、大学へはいるためにいっしょうけんめいべんきょうしています。しょうらいいしゃになりたいといっています。おばあさんは毎日いえでテレビを見たり、本をよんだりしています。 わたしたちは毎ばんしょくじのあといっしょにテレビをみたり、おちゃをのんだりしながらいろいろはなします。 日ようびには父の車であそびに行ったり、えいがを見に行ったりすることもあります。ときどきしんせつの人やともだちがあそびに来ます。なつやすみにはみんなでりょこうします。わたしたちは毎日たのしいです。この人におじいさんがいますか。()A、今るすです。B、はい、げんきです。C、今とうきょうにいます。D、八年まえにしにました。

考题 満員電車を降りようとするときなど、つい習慣で言ってしまう。「すみません、降ります」。この場合、「降ります」よりも、前の「すみません」に重点があることは言うまでもない。人の込み合うところで誰かと肩が触れれば、「すみません」。レジで細かい金の持ち合わせがなく、1万円札で払うことになれば、「(ア)」。 あるとき、いつものように、「すみません」と連発しながら電車を降りようとしていたら、男友達から、「どうして謝るんだ」と、大声でしかりつけられた。停車駅で降りるという当然の行為に対して、なぜ周囲に遠慮しなければならないのか、とかれは言う。一言「降ります」と言えばいい。周囲は場所をあけるのが当然だ。 当たり前である。だが、ふだんわれわれがいつも言うこの「すみません」は、自分の非を認める意味で使う謝罪とは明らかに違っている。 たとえば、車内で席を譲ってもらった場合、正確には「(イ)」だが、「すみません」だって、別に間違いじゃない。手紙の終わりに「乱筆お許しください」と書き添えるような、そんな感覚である。一種の符号のようなものだが、そのおかげで雰囲気が柔らかくなれる。落し物を拾ってあげてお礼を言われるのは嬉しいが、「すみません」だっていいじゃないか。文中に「大声でしかりつけられた」とあるが、男友達に大声でしかりつけられた理由はどれか()。A、私がなかなか電車を下りようとしないからB、停車駅で降りるのは当然だからC、周囲は場所をあけてくれるのが当然だからD、いつものように「すみません」と言ったから

考题 わたしのかぞくはきょうとにすんでいます。かぞくは父、母、あね、おとうと、おばあさん、そしてわたしの六人です。おじいさんは八年まえになくなりました。ちちはべんごしで、母は小学こうのせんせいです。あねは二年まえに大学をそつぎょうして、今、とうきょうのかいしゃではたらいています。一人でかいしゃのりょうにすんでいます。おとうとは十七さいで、もうすぐこうこうをそつぎょうします。いま、大学へはいるためにいっしょうけんめいべんきょうしています。しょうらいいしゃになりたいといっています。おばあさんは毎日いえでテレビを見たり、本をよんだりしています。 わたしたちは毎ばんしょくじのあといっしょにテレビをみたり、おちゃをのんだりしながらいろいろはなします。 日ようびには父の車であそびに行ったり、えいがを見に行ったりすることもあります。ときどきしんせつの人やともだちがあそびに来ます。なつやすみにはみんなでりょこうします。わたしたちは毎日たのしいです。おねえさんはきょうとにすんでいますか。()A、大学にいます。B、はい、いっしょにすんでいます。C、かいしゃにすんでいます。D、いまとうきょうにすんでいます。

考题 社会に出ていろいろな人を見ていると、素直な(老实的,纯朴的)人のほうが伸びています。 子どもは素直なほうがいいけれど、あまりにも素直な子どもは世の中で通用しないのではないかと心配する親がいますが、まったく杞憂(杞人忧天)のです。むしろ(不如说)、素直な人でないと成功できません。なぜでしょうか。 素直な人は自分の能力や努力だけでは、(ア)ことを理解しています。人に助けられて仕事が進んでいることを知っています。そこから感謝の言葉が湧いてきます。 子どもの口から「ありがとう」が自然に出てくるように、幼いときから繰り返し教えましょう。プレゼントをくれた人だけではなく、勉強を教えてくれた人、助けてくれた人……、いろいろな機会に「ありがとう」というようにして、人は支えられて生きていることを実感させましょう。 アメリカは、自分に自信を持ち、自分の長所を伸ばすように励ます国ですが、(イ)子どもたちは幼いころから感謝の言葉をきちんと言えるように訓練を受けます。 成長してからも他人のアドバイスを虚心に聞き、「われ以外、みな我が師」という精神で人と接すれば,さらにいろいろなアドバイスを受けることができます。 強いリーダーになる要件には、人の弱みや不安定な点を見つけ、相手を脅かし(胁迫)、恐れさせるずるさを持たなければならないという考え方もあります。相手と競争しなければならないときは、(ウ)。しかし,強いリーダーになる前に、よいリーダーとなれるような人間的成長が必要です。 そのためにも,子どものうちから親のアドバイスに従う習慣をつけましょう。文中の「そのため」は何のためか()。A、相手を脅かすためB、相手を恐れさせるためC、人間的成長ができるためD、人の弱みや不安定な点を見つけるため

考题 人間の体を機械と(ア)同じように考えることがよくあります。人体も、機械のように心臓や胃や目などの部品が集まってできていると考え、胃がおかしいときには胃という部品が故障したと考えます。したがって、胃を修理すれば、病気が治ったと考えることになります。 また、その部品にしても、心臓はポンプで、目はカメラで、脳はコンピューターのようなもの、と考えたりします。そういう、脳はコンピューターと同じに考えるひとは、(イ) コンピューターと同じように働く脳を優れたものと思うようになります。速く正確に計算できたり、なんでもそのままに記憶できたりすることが頭のいいことだ、と考えている人も(ウ)でしょう。 (エ)人間は機械と同じなのでしょうか。人間はただの複雑な機械であるだけなのでしょうか。もちろん、人間には機械に似たところもあります。だから、人間のことを機械を研究するように研究するのも無意味ではあるませんが、しかし、(オ)それでわかる事は人間の一面にすぎません。 (カ)、アメリカでは1976年の建国200年を記念するつもりで、その何年も前に、火星へのロケット着陸とがん制圧と言う大きな研究目標を立てました。このときまでに科学者が力を合わせて大規模な研究を続けた結果、すでに月旅行に成功していました。(キ)、その月旅行の科学を発展させて、火星ロケットにも成功しました。ところが、一方のがん制圧のほうは期待したような成果をあげることはできませんでした。つまり、機械を作る科学のほうは急速に進歩していきますが、人間の病気を治す科学のほうはそう簡単にはいかないということです。人間は機械と同じではないからです。(ク)人間は「いつも生きるために行動する」という点が機械と違うのです。機械は生きていませんから、生きるために行動するのではありません。文中のイに入れるのに最も適当なものはどれか()。A、だけB、しかC、ぐらいD、ばかり

考题 友人が病院に運ばれたときいたときは、もうだめかと思ったが、かろうじて命だけは()。A、たすかるわけだB、たすかるしまったC、たすかるにあたらなかったD、たすかったようだ

考题 日本の小学校は六年です。そして中学校は三年です。しょうがっこうとちゅうがっこうの九年かんは義務教育です。子供たちは六歳からちかくのしょうがっこうへ行きます。小学校はたいてい八時半に始まります。毎日五じかんか六じかんじゅぎょうがあります。そしてじゅぎょうはたいてい三時ごろ終わります。子どもたちは教室の掃除をしてから家へかえります。 中学校の授業もさんじごろおわりますがそのあとクラスがあります。生徒たちは、テニスややきゅうなどいろいろすきなことをすることができます。 高校は義務教育ではありませんが、中学生の九十五パーセントが高校へ行きます。高校に入るためには入学試験を受けなければなりません。やさしい高校もむずかしい高校もあります。高校も三年です。 大学はふつう四年ですが、医学のコースは六年です。さんねんかんの短期大学もあります。大学ではみんな入学試験があります。試験はたいへんむずかしいので、いっしょうけんめいべんきょうしなければなりません。大学へはいるためにはどうすればいいですか。()A、すきなことをべんきょうします。B、せんせいになります。C、おかねがいります。D、いっしょうけんめいべんきょうします。

考题 初めて人前で話をした時のことである。200人もの聴衆(ちょうしゅう)を相手に円説するということが、どんなに恐ろしいものか、壇上(讲台上)に立って初めて分かった。 テーブルの上には原稿を広げていたし、それを見ながらしゃべり出していた。 しかし、まるで雲に向かって話をしているような感じだった。わたしの話を理解してくれる人が得られるのだろうか。 (ア)、話しているうちに、ふと()気づいた。会場のあちこちに、柔らかく光るものがあったのだ。その「光」は人の目であった。 とたんに(瞬间)不安感は消えた。この「まなざし(目光)」を相手に、素直に(坦率地)話し続ければいいのだと思った。自分の声に自信が出るのを感じた。話をなんとか予定の時間どおりにすることができた。そして大きな拍手までいただいた。 初めて力を与えてくれた何人かの「まなざし」は、相手を知ろう、理解しようという心の現われだったに違いない。その心によってわたしは守られた。飾りを捨てて、ありのまま自分を見せながら語ることができた。それで初めて聴衆の多くと心を通い合わせるチャンスを得たのだ。 人は自分を分かってくれようとしている相手に対して、心を開くものだ。だから、相手に分かってもらいたければ、まず相手を分かろうとするところから出発すべきだろう。 30分間の壇上の体験で、わたしは大切なことを学んだ。それ以来、どんな人にも「あなたを理解したい」という心を、できるだけ「まなざし」に表すことにしている。聴衆の「まなざし」を感じた時の筆者の気持ちはどれか()A、安心B、愉快C、満足D、感謝

考题 社会に出ていろいろな人を見ていると、素直な(老实的,纯朴的)人のほうが伸びています。 子どもは素直なほうがいいけれど、あまりにも素直な子どもは世の中で通用しないのではないかと心配する親がいますが、まったく杞憂(杞人忧天)のです。むしろ(不如说)、素直な人でないと成功できません。なぜでしょうか。 素直な人は自分の能力や努力だけでは、(ア)ことを理解しています。人に助けられて仕事が進んでいることを知っています。そこから感謝の言葉が湧いてきます。 子どもの口から「ありがとう」が自然に出てくるように、幼いときから繰り返し教えましょう。プレゼントをくれた人だけではなく、勉強を教えてくれた人、助けてくれた人……、いろいろな機会に「ありがとう」というようにして、人は支えられて生きていることを実感させましょう。 アメリカは、自分に自信を持ち、自分の長所を伸ばすように励ます国ですが、(イ)子どもたちは幼いころから感謝の言葉をきちんと言えるように訓練を受けます。 成長してからも他人のアドバイスを虚心に聞き、「われ以外、みな我が師」という精神で人と接すれば,さらにいろいろなアドバイスを受けることができます。 強いリーダーになる要件には、人の弱みや不安定な点を見つけ、相手を脅かし(胁迫)、恐れさせるずるさを持たなければならないという考え方もあります。相手と競争しなければならないときは、(ウ)。しかし,強いリーダーになる前に、よいリーダーとなれるような人間的成長が必要です。 そのためにも,子どものうちから親のアドバイスに従う習慣をつけましょう。筆者はだれを対象にこの文章を書いたのだろうか()。A、親B、強いリーダーになりたい人C、成功したい人D、よいリーダーになりたい人

考题 わたしのかぞくはきょうとにすんでいます。かぞくは父、母、あね、おとうと、おばあさん、そしてわたしの六人です。おじいさんは八年まえになくなりました。ちちはべんごしで、母は小学こうのせんせいです。あねは二年まえに大学をそつぎょうして、今、とうきょうのかいしゃではたらいています。一人でかいしゃのりょうにすんでいます。おとうとは十七さいで、もうすぐこうこうをそつぎょうします。いま、大学へはいるためにいっしょうけんめいべんきょうしています。しょうらいいしゃになりたいといっています。おばあさんは毎日いえでテレビを見たり、本をよんだりしています。 わたしたちは毎ばんしょくじのあといっしょにテレビをみたり、おちゃをのんだりしながらいろいろはなします。 日ようびには父の車であそびに行ったり、えいがを見に行ったりすることもあります。ときどきしんせつの人やともだちがあそびに来ます。なつやすみにはみんなでりょこうします。わたしたちは毎日たのしいです。このひとのかぞくはみんなで何人ですか。()A、四人です。B、六人です。C、七人です。D、五人です。

考题 ニュースは、新聞だけではなくテレビで知ることもできます。 じゃあ、新聞なんか読まなくても、テレビを見ればいいじゃないか。そのほうが楽だし速いじゃないか。そんなふうに考える人もいるかもしれません。でもやはり、ぼくは新聞を読んでほしいと思います。新聞には、テレビにないよさがあると思うからです。 テレビというのは、映像と音が組み合わさっています。見る側は、目とか耳とかの感覚を働かせることになります。テレビの前に座っていると、感覚に訴える要素が次々に現れ、次々に消え、移っていくわけです。これはテレビの特色ですが、同時に欠陥でもあります。 ときどきこちらが考えさせられるようなことを言ったり、興味深い画像が出てきたりしますが、あっと思ったらもう次に移ってしまい、よほど印象深いもの以外は思い出しません。 それに対して新聞、(ア)活字の場合は、立ち止まって(停下来)考えることができます。それだけではなく、さらにその先へ考えを進めることができる。想像を広げたり、新しい着想を得たりということが可能なのです。 映像から得る感覚的な刺激は、(イ)だけで終わってしまうことが多いのですが、活字の場合は、新しい何かを付け加えたり、まったく違うものを創り出したりということがしやすいのです。この文章の内容に最も合っているものはどれか()A、ニュースを知るには、新聞より速くて楽なテレビのほうがよい。B、ニュースは新聞だけではなくテレビで知ることもできるので、どちらも見るべきだ。C、立ち止まって考えることができる新聞には、すぐに消えてしまうテレビにはないよさがある。

考题 わたしのかぞくはきょうとにすんでいます。かぞくは父、母、あね、おとうと、おばあさん、そしてわたしの六人です。おじいさんは八年まえになくなりました。ちちはべんごしで、母は小学こうのせんせいです。あねは二年まえに大学をそつぎょうして、今、とうきょうのかいしゃではたらいています。一人でかいしゃのりょうにすんでいます。おとうとは十七さいで、もうすぐこうこうをそつぎょうします。いま、大学へはいるためにいっしょうけんめいべんきょうしています。しょうらいいしゃになりたいといっています。おばあさんは毎日いえでテレビを見たり、本をよんだりしています。 わたしたちは毎ばんしょくじのあといっしょにテレビをみたり、おちゃをのんだりしながらいろいろはなします。 日ようびには父の車であそびに行ったり、えいがを見に行ったりすることもあります。ときどきしんせつの人やともだちがあそびに来ます。なつやすみにはみんなでりょこうします。わたしたちは毎日たのしいです。おかあさんはなにをしていますか。()A、べんきょうしています。B、テレビをみています。C、小学校でおしえています。D、べんごしです。

考题 さんは今画壇で知らない人がいないほどの、かなり高名な画家です。 このA.さんにわたしはある時、「どうして画家になられたんですか」と、聞いたことがあるのですが、その問いにA.さんは、次のように答えてくれました。 さんが小学校の低学年の頃、家で一生懸命絵を描いていたら、隣のおばさんが遊びに来て、偶然、さんの絵を見て、こう言ったそうです。 「へえ、ちゃん、絵が上手なんだね。(ア)びっくりしちゃった。」 その褒められた一言がうれしくて、また一生懸命描いていると、再びおばさんが来て、さんの絵を褒めてくれた。 「すごい、前より、また(イ)。」 それがうれしくて、また頑張って描くと、また褒められた。 このように、褒められたのがうれしくて懸命に描くと、また褒められて、それがきっかけになって、また一生懸命描く。 褒められると頑張る、という、この2つが歯車(齿轮)のようにいいほうに回転して、気がつくと画家になっていた、というのです。 「それだけです」と、さんは少し申し訳なさそうに言われました。 さんがすばらしい画家になれた、そのきっかけを作ってくれたのは隣のおばさんです。隣のおばさんが何気なく(无意中)褒めてくれたその一言で、調子よく図に乗った(一表扬就来劲儿)さんは、単純に図に乗る才能を持っていた画家、と言ってもいいでしょう。文中に「申し訳なさそうに」とあるが、それはなぜか()A、図に乗る才能を持つだけの画家だからB、ただ絵が好きで画家になっただけだからC、少し才能があって画家になっただけだからD、すばらしい機会に恵まれた画家だけだから

考题 日本の小学校は六年です。そして中学校は三年です。しょうがっこうとちゅうがっこうの九年かんは義務教育です。子供たちは六歳からちかくのしょうがっこうへ行きます。小学校はたいてい八時半に始まります。毎日五じかんか六じかんじゅぎょうがあります。そしてじゅぎょうはたいてい三時ごろ終わります。子どもたちは教室の掃除をしてから家へかえります。 中学校の授業もさんじごろおわりますがそのあとクラスがあります。生徒たちは、テニスややきゅうなどいろいろすきなことをすることができます。 高校は義務教育ではありませんが、中学生の九十五パーセントが高校へ行きます。高校に入るためには入学試験を受けなければなりません。やさしい高校もむずかしい高校もあります。高校も三年です。 大学はふつう四年ですが、医学のコースは六年です。さんねんかんの短期大学もあります。大学ではみんな入学試験があります。試験はたいへんむずかしいので、いっしょうけんめいべんきょうしなければなりません。大学ではなにをべんきょうしますか。()A、にほんごをべんきょうします。B、むずかしいべんきょうをします。C、医学をべんきょうします。D、すきなことをべんきょうします。

考题 ニュースは、新聞だけではなくテレビで知ることもできます。 じゃあ、新聞なんか読まなくても、テレビを見ればいいじゃないか。そのほうが楽だし速いじゃないか。そんなふうに考える人もいるかもしれません。でもやはり、ぼくは新聞を読んでほしいと思います。新聞には、テレビにないよさがあると思うからです。 テレビというのは、映像と音が組み合わさっています。見る側は、目とか耳とかの感覚を働かせることになります。テレビの前に座っていると、感覚に訴える要素が次々に現れ、次々に消え、移っていくわけです。これはテレビの特色ですが、同時に欠陥でもあります。 ときどきこちらが考えさせられるようなことを言ったり、興味深い画像が出てきたりしますが、あっと思ったらもう次に移ってしまい、よほど印象深いもの以外は思い出しません。 それに対して新聞、(ア)活字の場合は、立ち止まって(停下来)考えることができます。それだけではなく、さらにその先へ考えを進めることができる。想像を広げたり、新しい着想を得たりということが可能なのです。 映像から得る感覚的な刺激は、(イ)だけで終わってしまうことが多いのですが、活字の場合は、新しい何かを付け加えたり、まったく違うものを創り出したりということがしやすいのです。文中に「その先へ考えを進めることができる」とあるが、誰ができるのか()。A、新聞を読む人たちB、新聞を作る人たちC、活字を使う人たちD、テレビを見る人たち

考题 わたしのかぞくはきょうとにすんでいます。かぞくは父、母、あね、おとうと、おばあさん、そしてわたしの六人です。おじいさんは八年まえになくなりました。ちちはべんごしで、母は小学こうのせんせいです。あねは二年まえに大学をそつぎょうして、今、とうきょうのかいしゃではたらいています。一人でかいしゃのりょうにすんでいます。おとうとは十七さいで、もうすぐこうこうをそつぎょうします。いま、大学へはいるためにいっしょうけんめいべんきょうしています。しょうらいいしゃになりたいといっています。おばあさんは毎日いえでテレビを見たり、本をよんだりしています。 わたしたちは毎ばんしょくじのあといっしょにテレビをみたり、おちゃをのんだりしながらいろいろはなします。 日ようびには父の車であそびに行ったり、えいがを見に行ったりすることもあります。ときどきしんせつの人やともだちがあそびに来ます。なつやすみにはみんなでりょこうします。わたしたちは毎日たのしいです。おとうとは大学へ行きますか。()A、はい、行くつもりです。B、いいえ、行きません。C、まだこうこう生です。D、もうそつぎょうしました。

考题 社会に出ていろいろな人を見ていると、素直な(老实的,纯朴的)人のほうが伸びています。 子どもは素直なほうがいいけれど、あまりにも素直な子どもは世の中で通用しないのではないかと心配する親がいますが、まったく杞憂(杞人忧天)のです。むしろ(不如说)、素直な人でないと成功できません。なぜでしょうか。 素直な人は自分の能力や努力だけでは、(ア)ことを理解しています。人に助けられて仕事が進んでいることを知っています。そこから感謝の言葉が湧いてきます。 子どもの口から「ありがとう」が自然に出てくるように、幼いときから繰り返し教えましょう。プレゼントをくれた人だけではなく、勉強を教えてくれた人、助けてくれた人……、いろいろな機会に「ありがとう」というようにして、人は支えられて生きていることを実感させましょう。 アメリカは、自分に自信を持ち、自分の長所を伸ばすように励ます国ですが、(イ)子どもたちは幼いころから感謝の言葉をきちんと言えるように訓練を受けます。 成長してからも他人のアドバイスを虚心に聞き、「われ以外、みな我が師」という精神で人と接すれば,さらにいろいろなアドバイスを受けることができます。 強いリーダーになる要件には、人の弱みや不安定な点を見つけ、相手を脅かし(胁迫)、恐れさせるずるさを持たなければならないという考え方もあります。相手と競争しなければならないときは、(ウ)。しかし,強いリーダーになる前に、よいリーダーとなれるような人間的成長が必要です。 そのためにも,子どものうちから親のアドバイスに従う習慣をつけましょう。文中に「素直な人のほうが伸びています」とあるが、その意味はどれか()。A、素直な人のほうが成功する。B、素直な人のほうがよく努力する。C、素直な人のほうがよく背がのびる。D、素直な人のほうが人に支えられている。

考题 満員電車を降りようとするときなど、つい習慣で言ってしまう。「すみません、降ります」。この場合、「降ります」よりも、前の「すみません」に重点があることは言うまでもない。人の込み合うところで誰かと肩が触れれば、「すみません」。レジで細かい金の持ち合わせがなく、1万円札で払うことになれば、「(ア)」。 あるとき、いつものように、「すみません」と連発しながら電車を降りようとしていたら、男友達から、「どうして謝るんだ」と、大声でしかりつけられた。停車駅で降りるという当然の行為に対して、なぜ周囲に遠慮しなければならないのか、とかれは言う。一言「降ります」と言えばいい。周囲は場所をあけるのが当然だ。 当たり前である。だが、ふだんわれわれがいつも言うこの「すみません」は、自分の非を認める意味で使う謝罪とは明らかに違っている。 たとえば、車内で席を譲ってもらった場合、正確には「(イ)」だが、「すみません」だって、別に間違いじゃない。手紙の終わりに「乱筆お許しください」と書き添えるような、そんな感覚である。一種の符号のようなものだが、そのおかげで雰囲気が柔らかくなれる。落し物を拾ってあげてお礼を言われるのは嬉しいが、「すみません」だっていいじゃないか。文中に「だが、ふだんわれわれがいつも言うこの「すみません」」とあるが、その「すみません」の表す意味はどれか()。A、自分の非を認めることB、人にご迷惑をかけた時に謝罪することC、手紙の終わりに「乱筆お許しください」と書いたような許してもらう気持ちD、周りの雰囲気を柔らかくする一種の符号のようなもの

考题 ある日、友だちの吉崎さんが突然「卵は立つと思いますか」と言い出すのです。 「立春の卵という話は聞いたことがあるけどね。」 「卵は立春であってもなくても立ちます」吉崎さんは断言します。 翌日,吉崎さんはいくつかの卵を持って来ました。机の上で卵を立てようとする。コロンブス(哥伦布)はゆで卵(煮鸡蛋)の先を潰して立てたそうですが、吉崎さんは、生のままの卵を、そのままの形で立てようとしている。1分、2分、やはりだめじゃないかと言おうとしたその瞬間、卵は立ったのです。 吉崎さんは満足そうに笑っています。 「なるほど、立つのか。」 家に帰って。冷蔵庫から卵を取り出して実験を繰り返しました。焦っていると、なかなか立たない。心を静かにして落ち着いてやると、やはり立つのです。全部ではないが、いくつかは、立ちました。 机の上にすっきりした形で立つ卵をじっと見ながら、わたしはこう考えました。 先入観(先入为主)というのは(ア)ものです。コロンブスの卵の話があるために卵は細工(加工)をしないと立たないという思い込み(深信不疑)が広がりました。それと、立春の卵の話が重なります。立春のころになると、ときどきそのことが話題になります。すると、おかしなことに人々はこう思い込んでしまったのです。「立春の日に立つか立たないかが話題になる、ということは立春の日以外は当然、卵は立たないのだ」と。文中に「わたしはこう考えました」とあるが、考えたことはどれか()。A、卵が立つなんて、どうしても考えられない。B、卵が立つという事実を発見してうれしい。C、卵が立たないという先入観はいけない。D、卵が立つわけない。

考题 初めて人前で話をした時のことである。200人もの聴衆(ちょうしゅう)を相手に円説するということが、どんなに恐ろしいものか、壇上(讲台上)に立って初めて分かった。 テーブルの上には原稿を広げていたし、それを見ながらしゃべり出していた。 しかし、まるで雲に向かって話をしているような感じだった。わたしの話を理解してくれる人が得られるのだろうか。 (ア)、話しているうちに、ふと()気づいた。会場のあちこちに、柔らかく光るものがあったのだ。その「光」は人の目であった。 とたんに(瞬间)不安感は消えた。この「まなざし(目光)」を相手に、素直に(坦率地)話し続ければいいのだと思った。自分の声に自信が出るのを感じた。話をなんとか予定の時間どおりにすることができた。そして大きな拍手までいただいた。 初めて力を与えてくれた何人かの「まなざし」は、相手を知ろう、理解しようという心の現われだったに違いない。その心によってわたしは守られた。飾りを捨てて、ありのまま自分を見せながら語ることができた。それで初めて聴衆の多くと心を通い合わせるチャンスを得たのだ。 人は自分を分かってくれようとしている相手に対して、心を開くものだ。だから、相手に分かってもらいたければ、まず相手を分かろうとするところから出発すべきだろう。 30分間の壇上の体験で、わたしは大切なことを学んだ。それ以来、どんな人にも「あなたを理解したい」という心を、できるだけ「まなざし」に表すことにしている。大勢の聴衆(ちょうしゅう)の前で初めて話をし始めた時の筆者の気持ちはどれか()。A、得意B、不安C、不満D、後悔

考题 初めて人前で話をした時のことである。200人もの聴衆(ちょうしゅう)を相手に円説するということが、どんなに恐ろしいものか、壇上(讲台上)に立って初めて分かった。 テーブルの上には原稿を広げていたし、それを見ながらしゃべり出していた。 しかし、まるで雲に向かって話をしているような感じだった。わたしの話を理解してくれる人が得られるのだろうか。 (ア)、話しているうちに、ふと()気づいた。会場のあちこちに、柔らかく光るものがあったのだ。その「光」は人の目であった。 とたんに(瞬间)不安感は消えた。この「まなざし(目光)」を相手に、素直に(坦率地)話し続ければいいのだと思った。自分の声に自信が出るのを感じた。話をなんとか予定の時間どおりにすることができた。そして大きな拍手までいただいた。 初めて力を与えてくれた何人かの「まなざし」は、相手を知ろう、理解しようという心の現われだったに違いない。その心によってわたしは守られた。飾りを捨てて、ありのまま自分を見せながら語ることができた。それで初めて聴衆の多くと心を通い合わせるチャンスを得たのだ。 人は自分を分かってくれようとしている相手に対して、心を開くものだ。だから、相手に分かってもらいたければ、まず相手を分かろうとするところから出発すべきだろう。 30分間の壇上の体験で、わたしは大切なことを学んだ。それ以来、どんな人にも「あなたを理解したい」という心を、できるだけ「まなざし」に表すことにしている。文中に「素直に話し」とあるが、どのように話すのか()。A、広げた原稿を見ながらしゃべり出す。B、原稿と会場を見ながら落ち着いて話す。C、自分の声に自信がなくても話を続ける。D、飾りを捨てて、ありのままの自分を見せながら語る。

考题 单选题わたしのかぞくはきょうとにすんでいます。かぞくは父、母、あね、おとうと、おばあさん、そしてわたしの六人です。おじいさんは八年まえになくなりました。ちちはべんごしで、母は小学こうのせんせいです。あねは二年まえに大学をそつぎょうして、今、とうきょうのかいしゃではたらいています。一人でかいしゃのりょうにすんでいます。おとうとは十七さいで、もうすぐこうこうをそつぎょうします。いま、大学へはいるためにいっしょうけんめいべんきょうしています。しょうらいいしゃになりたいといっています。おばあさんは毎日いえでテレビを見たり、本をよんだりしています。 わたしたちは毎ばんしょくじのあといっしょにテレビをみたり、おちゃをのんだりしながらいろいろはなします。 日ようびには父の車であそびに行ったり、えいがを見に行ったりすることもあります。ときどきしんせつの人やともだちがあそびに来ます。なつやすみにはみんなでりょこうします。わたしたちは毎日たのしいです。この人におじいさんがいますか。()A 今るすです。B はい、げんきです。C 今とうきょうにいます。D 八年まえにしにました。

考题 单选题日本人はとかく、うわさをすぐ信用()だ。冷静に真实を確かめるようにしなければ。A しがちB するべきC すまじきD しかねない

考题 单选题ニュースは、新聞だけではなくテレビで知ることもできます。 じゃあ、新聞なんか読まなくても、テレビを見ればいいじゃないか。そのほうが楽だし速いじゃないか。そんなふうに考える人もいるかもしれません。でもやはり、ぼくは新聞を読んでほしいと思います。新聞には、テレビにないよさがあると思うからです。 テレビというのは、映像と音が組み合わさっています。見る側は、目とか耳とかの感覚を働かせることになります。テレビの前に座っていると、感覚に訴える要素が次々に現れ、次々に消え、移っていくわけです。これはテレビの特色ですが、同時に欠陥でもあります。 ときどきこちらが考えさせられるようなことを言ったり、興味深い画像が出てきたりしますが、あっと思ったらもう次に移ってしまい、よほど印象深いもの以外は思い出しません。 それに対して新聞、(ア)活字の場合は、立ち止まって(停下来)考えることができます。それだけではなく、さらにその先へ考えを進めることができる。想像を広げたり、新しい着想を得たりということが可能なのです。 映像から得る感覚的な刺激は、(イ)だけで終わってしまうことが多いのですが、活字の場合は、新しい何かを付け加えたり、まったく違うものを創り出したりということがしやすいのです。この文章の内容に最も合っているものはどれか()A ニュースを知るには、新聞より速くて楽なテレビのほうがよい。B ニュースは新聞だけではなくテレビで知ることもできるので、どちらも見るべきだ。C 立ち止まって考えることができる新聞には、すぐに消えてしまうテレビにはないよさがある。